「家族写真」は僕にとって、唯一の「学問」と言ってもいい。人として成長するために必要なことをいろいろ教えてくれるんです。

第 8 回 浅田政志 Photographer

売れるだろう、注目されるだろうということに力を傾けていくと、結果だけでしか計れない。写真集が出るのは嬉しいにきまってるけど、本当の喜びはそこじゃない。

課題だけは、ちゃんとやってました。
どうせ出すからには、みんなに「おおーっ!」って思われたいという気持ちがあって(笑)

---中学3年生の時にお父様のカメラを使って
写真を撮り始めたのが最初だそうですが、
写真に興味を持ったのもその頃でしたか?

年賀状用の写真を撮るためだけに使っていた、親父のニコンのカメラがあったんです。僕とお兄ちゃんの成長過程を撮るだけのカメラ。僕が中学にあがるまで、年末に必ず撮ってましたね。

それで、興味を持って、フィルムを詰めて撮ったりして。友達だったり、家の周りの風景だったり。自己流だったんで、フィルムがうまくスプールに入らなくて撮れていなかったりもしました。

---高校卒業後は、写真の専門学校に進んで、
今に繋がる「家族写真」を撮られたそうですね。

まず、勉強はイヤ(笑)。当時は、遊びたいという気持ちが大きかったです。それに、興味を持てるものが写真しかなかった。学校では遊んでばかりで、「すみません!」っていうほど勉強しなかったです。ただ、課題だけは好きで、ちゃんとやっていました。どうせ出すからには、みんなに「おおーっ!」って思われたいという気持ちがすごくあって(笑)。

3年の時、「たった1枚で自分を表現する」という課題が出て、家族の思い出を再現して作品をつくったのが、「家族写真」を撮るきっかけとなりました。このときは1枚だけ撮って、その後、卒業制作の時に、やはり家族の思い出を再現した作品を13枚撮りました。

---卒業後は?

就職しないで、三重の実家に帰ってふらふらしていました。本当に何も考えていなかったんですよ。アルバイトもせず、毎日スロット。朝一で店に並んで、中毒みたいになっていましたね。マックスに冴えていた時で、月140万円ほど稼いでました。3年間で2千万円くらいは稼いでいたんじゃないかな。

稼げてはいるから、そんな状態に甘えてしまっていたところもあって。頭の中に写真はあったものの、その頃はほとんど撮っていなかったですね。

スタジオ勤務時代は、写真を見せ合ったり、
語り合ったり。青春といったら恥ずかしいけど、
そんな2年半でした

---その後、上京してスタジオフォボスに入りました。
入るのは簡単ではないと思いますが、
どのようにアプローチされたんですか?

アルバイトしながら、2か月に1度くらい作品を持って行きました。最初は、浅田家の家族写真。それから、東京を撮ったものとか、学生の時に撮ったものを。5回くらい行きました。最初からブックを全部持って行くと、見せる作品がなくなってくるので、順々に(笑)。

1、2回持っていってダメだったらあきらめるっていう人が多いみたいだけど、オレなんか単純だから、何度も持って行きましたよ。

---入ってみていかがでしたか?

いろんなカメラマンが入れ替わり立ち代りくるので、プロの仕事のやり方を、こそっと見られました。ライティングの技術から、仕事のこなし方から勉強になることは多かったです。魅力的なカメラマンの方とも知り合えましたし。

でも、一番よかったのは、同世代の友達と出会えたことですね。スタッフは30人くらいで、個性的で面白い人たちばかり。「これどう?」とかプリント見せ合って、「もうちょっとこうしたほうがいいんじゃない?」なんて言い合ったり。「写真表現って何?」とか、「撮りたい写真は?」とか、お互い悩んでいることについて語り合ったり。まるで学生時代の部活のような、青春といったら恥ずかしいけど、そんな2年半を過ごせました。

本当に写真の話ができるのは、その時の友達かな。今でも仲いいですよ。一緒に撮りに行ったりもします。みんな未だあんまり食えていないですけどね(笑)。

---その後、独立されました。

僕みたいにいきなりフリーになると、食うのは難しいです。カメラマンはたくさんいるし、写真がいいというだけで仕事がくるわけでもない。人間関係で成り立つ部分もありますからね。

カメラマンになるための王道は、師匠につくこと。いい師匠についた人は、だいたい食えていると思います。

---でも師匠につかなかった。

僕の場合、この人に尽くしたいと思える人とは、残念ながら出会えなかった。それに、師匠につくと、当然師匠の仕事に多くの時間がとられるし、最初の頃はどうしても師匠のテイストを求められたりすることが多い。でもそれは自分の“色”じゃない……。それが自分には合わないと思いました。

それなら、自分で苦労して結果を出した方がいいと思って独立しました。仕事はなかったですけど、でも、今のところそれでよかったと思っています。

ちょっとお門違い?
営業用のブックに「浅田家」の写真を

---最初はどういうお仕事をされたんですか?

とにかく営業。フォボスの時にお世話になっていたカメラマンさんのロケアシに連れて行ってもらったり、出版社にブックを持って行ったりしました。といっても、仕事は月に1回あるかないかくらい。なのに、アホだからブックには浅田家の写真を入れて持って行ってたんですよ(笑)。

---すぐに仕事には繋がりましたか?

「うーん、面白い!いいね、また見せてね」って反応はいいんですが、面白がってくれるだけで、仕事にはほとんど結びつかない。ちょっとお門違いみたいな。面白いだけで仕事をどうしたいのかビジョンが見えない。

リアルにガッツリ仕事をとるなら「料理を美味しそうに撮れます」とか「人物を魅力的に撮れます」とか仕事写真が撮れることを示すべきですよね。でも、家族写真には自信があったから持って行った。「この人どう思うかな」と、見た人の反応も楽しみだったし、単純に見てほしかったのかもしれません。

---営業に向かないとわかっていながら
持っていったんですね?

仕事っぽい写真も撮っていたんですが、自分の中で「キタッ!」と、思えるほどのものじゃなかったんだと思います。だから、そんなに見せたくない。結局、あまり自信がなかったんです。

---どんなところを回られたんですか?

好きな雑誌の編集部へ。カルチャー雑誌や映画雑誌、それから現実的に仕事がきそうなところへも。たとえば、写真がたくさん載っているけど、撮っているのは、ほとんど若手というような雑誌とか。アポをとるのも難しいですし、1日3か所とか効率よく回れればいいけど、なかなかそんなにうまくいかないですね。

---その間、作品づくりもされていた?

家族写真を一番撮ったのは、独立してからのこの時期と、フォボスでの2年半。土日に三重の実家に帰って4シチュエーション撮って、などやってましたね。

こっちに戻ってきてプリントして、それをブックに入れるんですが、それがちょっとずつ厚く重くなっていくのが嬉しくて。「ああ、たまってる」って(笑)。

---家族写真を撮り続けていれば、
いつかなんとかなるという予感はありましたか?

予感はないけど、根拠のない自信みたいなものはありましたね。たとえ日の目を見ることなく終わったとしても、撮らなくてはと思った。撮ることに対して何の迷いもなかったですね。撮るという選択しかなかった。

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Profile プロフィール

浅田政志
Masashi Asada

1979年三重県生まれ。
2000年日本写真映像専門学校研究科卒業。2003年東京へ。2004年よりスタジオフォボスにて2年半勤務。2007年写真家として独立。自身の家族写真をとりためて2007年初の写真集『浅田家』(ユトレヒト)発売。2008年『浅田家』(赤々舎)で第34回 木村伊兵衛写真賞受賞 。
「家族力」とも言うべき、家族が持つ力、その大切さをユーモア溢れる手法で伝える。他の家族を撮る「みんな家族」は、予約殺到で12〜3年待ちのプロジェクトとなった(09年7月現在)。「家族」をキーワードに、地元・地域・幼馴染・友人と、興味の幅をどんどん広げている。

URL http://www.asadamasashi.com/

Item アイテム

GR DEGITAL
ちょっとした撮影用にと、いつも持ち歩いている。三脚は、『浅田家』を出版した赤々舎の姫野さんからのプレゼント。ライカ製。

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